弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

熊野に恋して春歌う(2)

そういえばこのブログ、当初は新月と満月の日を必ず更新すると定め、あとは気ままにやっていこうと思っていたのですけど、なんやかんや書くのが楽しくて、割と頻繁に更新しているのでした。

気がつけば今日は新月。で、昨日の熊野についての続きです。昨年の熊野本宮例大祭に、旅の途中で出くわしたときのことを、同年の秋頃になって回想して、日記に書いていたのを、Upします。

なんかこう、私は旅の最中にスピッツの「春の歌」をいつも歌ってるんだなあと思う。。。旅の歌ってあるよね。

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恋は特急電車を降りた瞬間から始まった。 熊野の香りは、細胞を誘い、震わせ、土地の様々を私に刻み込んだ。

初めて訪れたのは初冬で、本宮近くの川湯温泉に宿泊した。本宮をお参りしたあと、なぜだか子宮のように温かい大斉原の境内で夫婦揃って子どもがえりした。それは私たちのささやかな幸福の、一瞬の永遠。海の上に二人、ただ漂うときの、なんの力も入らず、ただ男と女であるときの、それ以上のもっと無垢なものに返るときの、あの温もりを、だだぴろい境内で感じた。

たまらず一ヶ月後、今度は年越しのために再来した。沈黙の冬を迎え、音のない熊野の山々には、清流の流れる音だけがこだましていた。

例えば伊勢にいるとわたしはいつも空を仰ぐ。内宮の宇治橋の空なんて、宇宙と地球を区切る空の天井がまるでなくて、星々にわたしの話し声が聞こえてしまいそうだと、少し緊張もする。

対して熊野は、土深く眠る誰かの吐息が耳に触れるほど、足元に様々な気配を感じる。森に入れば、そこが海の底だと錯覚する。岩の間をこぼれる沢の音、生まれた泡が弾ける音。熊野三山奥宮である玉置神社は、山の上にある竜宮城のようだ。そして空におはします神々の、巨大な存在感。それらが一緒くたになって、この土地特有の”圧”を作り出す。

これまで感じたことのなかった種の、だけど切なくなるほど懐かしい心地にかられ、恋に落ちた。土地に恋した人間は、いそいそとそこへ足を運ぶものだ。わたしは、あなたの春が見たいと思った。

そうして訪れた三度目の熊野は私一人だった。母と伊勢を旅して、不思議な成り行きで、一人熊野へ向かうことになった。

偶然にもその日は、熊野本宮で行われる年に一度の例大祭の日だった。新宮を抜け、新宮川そばの道をひたすら車を走らせているうち、山々にこんもりと赤茶けた桃色が目の端に映る。窓を開けると、そばを流れる川も、谷も、森も、歓喜で歌っている。ああ、この種の歌をわたしは知っている。故郷の雪国が雪解けを迎え、ふきのとうが土を突き破るころ、空に轟く絶叫。

熊野の歌は慎ましやかで、くすぐり合うように細かやだ。

思わず眠くなって、音楽をかけた。

「春の歌 愛と希望より前に響く 聞こえるか 遠い空に映る君にも」

涙で前が見えなくなって、慌てて車を路肩に止めた。

春の歌は、命が芽吹くときの、歓喜の声だ。 命そのものは、 愛や希望の一つ手前にあって、 その根源となる。 命が生まれる山々の声。 春は命が芽吹く季節。 わたしが生まれたのも春だった。

これまでぼんやり聴きながら ずっと気になっていたフレーズが 鮮やかに立ち上がる。

言葉の力は、その威力は、本来これほど凄まじいものなのだなと思う。 それは時々私を、土地の深部へ差し込むように、誘ってくれる。 偶然を装って。

道路脇を神輿の行列が通る。 真夏のように暑い西日で、担ぎ手の汗が光る。 空を跳ねていく、人々の歓声。 青いのに、桃色の空が開かれていく。 見えない大きな手によって。

どうか私も、正しく、そこへ導いていく言葉を、生み出せますように。 春の歌で溢れる熊野の空に、そう祈った。

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