弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

新宿駅で、最後のプレゼントを

朝はかなり神経が立っていて、ギリギリまで布団から出なかった。いよいよ東京に帰るのか。そう思うと緊張した。我が家に帰ること自体は楽しみなのだけど、人の多い東京駅と新宿駅を経由するプロセスを想像すると、どうにも気が重い。夫に部屋の掃除を手伝ってもらいながら励まされ、手を動かして吹っ切っていく。帳場に降りると、読書中のMr.ベルツリーに「何時に帰るの?見送る」と声をかけられ、ひまわりが咲いたみたいな顔をみて、ふっと和らぐ。

重たいスーツケースを玄関にどんと起き、夫とMr.ベルツリーと3人で記念に写真を撮った。新幹線に乗ってPCを開き、LINEを見ると写真が届いていて、我ながら温泉まんじゅうみたいな丸っこい顔とすっぴんで、だけどフニャッと笑ってた。滞在4日目くらいになる二人も、都内にいるときに比べてまるで子どものような顔をしていて、これが花巻の、大沢温泉の力なんだよなあと、ひとりごちた。

とにかく湯治場コミュニケーションには、絶妙な距離感があるのだ。小学校くらいはありそうな館内で、一人一人部屋をもち、ご飯のときや、温泉に入りたい時だけいきあう。あとは各々部屋で読書したり、誘い合って映画を観たり。みんなで集まっての旅行とはまた違って、それぞれのペースに寄りながらも、ほぐれた体と心で、言葉はやわらかくなり、照れの殻さえ脱げてすっと口から出ていってしまう。それが風の抵抗も受けずに相手の心に落ちて、また返ってくる。

滞在した3週間ほどのうち、ほとんどの時間を一人で過ごしていた私とちがって、数日滞在する人とはほぐれ具合も休みたい度合いやフェーズも違うから、そこは思いやりの補完と配慮がもっと必要だなと反省もあった。やはり湯治場なので、”基本的に休みにきている”という前提があるのだけど、疲れや体が休まるのに必要な時間と空間は、他人にも、ましてや自分にも測れないものがある。だからこそ、「ほとんどほうっておく」のが基本原則になるだろうと、自戒を込めてここに記録します。

さて帰りの新幹線。猛スピードで流れていく雪原が、どんどん土まじりになり、南下していくにつれて、自分が冬のはしっこの方にいたことに気付かされた。岩手をでるころには、雪があるのはもはや山だけで、仙台はすっかり春の陽気だった。開けられない窓の向こうからもそれがしっかりと伝わるほど、けだるいような空気が風で混ざり合っていて、ねむたい。

私は乗り物に乗ったまま眠ることが、高校卒業以来ほとんどない。なのに、ひっさしぶりによだれを垂らして眠ってしまった。乗り物に乗るとどうしても身体が硬くなるのが自分でもわかるのだけど、温泉デイズでほぐれきっているのか、ぶくぶく沈むように寝落ちてしまっていた。「次は大宮」と言われて反射的に目を覚ましたとき、それまで隣のサラリーマンにもたれかかるようにして眠りこけていた自分にギョッとするあまり、なぜだか一瞬腰が浮いてしまった。

上野に向かうにつれて建物と建物の隙間がどんどんなくなっていく。離島なんかにいくと、手前は海で後ろは山だったりで、家と家の間はどこも手狭な感じがするけれど、やはり大宮から上野にかけてのこの景色は異様だよなあ、といつも思う。塀の影や屋根の向こうからちらほらと首を伸ばす木が、具沢山のサラダに押し込められて飛び出したレタスみたい。

目が覚めたらいきなり景色が変わっていたので、なんだか心の準備もできないまま東京駅に降り立った。繰り返す旅の風景で、いつも変わらないのは降車出口でゴミ袋の口をあけて立っているおばちゃんの職人スマイルと、コールドスリープから目覚めたみたいにギクシャク歩き出す人。エレベーターが飲み込んでいく濁流に押し流されながら「人が多いと、それだけで急いでしまう心理って謎だなあ」とかぼんやり考える。

せめて読書で気を紛らわそうと、本屋に入る。「平成を振り返る」という文字が目に入って、養老孟司さんの新書を開くと、「明治神宮の森」という文字にそそられそのままレジに持って行った。

中央線に乗り込む。ラッキー、快速特急だ。空いてる。すぐに走り出した車内から一瞬雲の筋が見えて、大沢温泉のあの橋のところで歌っていたときに感じた風を思い出して、その風の心地を呼び起こした。包まれているような安心感がある。手にしたままの新書を適当に開いたら、コンピューターとは吹けば飛ぶようなもの、と始まり、面白い。

あっというまに新宿駅に着く。降りる寸前、なぜだかぴんときた。東京で暮らして、ある時期から山へ登るようになったのは、土を感じたかったからだ。公園に行って裸足になってみても、芝生に寝転がっても、土を踏んでる気になれなかったのは、土の深さを感じたかったらなんだ。私はただ山の頂から麓を見下ろしたかったんじゃなく、そういう爽快さに飢えていたのではなく、山の上ほど深い土の上にしっかり立ちたかったからなんだ。

沖へいくほど深くなる海と同じように、山の高さは土の深さを物語る。雨が降れば川が流れ、森が生まれ、、、ああ、私が本当に恋しかったのは? なぜ足の裏がじわじわしてくる?

東京生活もあと2週間。もうきっと、思い出せなくなる痛みが、唐突にしっかりした手触りで持って胸に迫ってきた。私はその一瞬がどうにも惜しくて、新宿駅のホームから動けなくなった。