はじまりは木蓮の香り
京都で暮らし始める私たちを迎えてくれたのは、まっ白な満開の木蓮。新居の出窓を開けたとたん、品のいい甘い香りが、雨の音とともに入ってきた。たちまち部屋中が木蓮の香りでいっぱいになって、夫と2人で、目一杯吸い込んだ。
「すごいね、歓迎されてるみたい!」
引っ越しのトラックが来るまでの間、夫は前日のうちに決めておいた家具の配置とサイズ感を確かめている。私はびしょ濡れになったベランダへ乗り出して、その肉厚な花弁に触れた。露が弾けて、「ようこそ!」と言われてる気になった。 怒涛の片付け作業の最中、2日後に雨が上がった。真っ青な空にこそふさわしい洗い立ての白を、スズメがチラチラ揺らしていく。
…そんな引っ越しデイズも落ち着き、はや1週間。すっかり晴れ続きで木蓮も枯れ、代わりに桜が一斉に咲き出した。私はただひたすらに眠かった。
春分点で切り替わった空、東京から京都へと変わった土地の、MY天変地異のはざまで、私の身体は全部を飲み込むために睡眠を貪り始めた。目がさめると夫はせっせと部屋をセッティングしてくれてる。
ぐうぐう寝ては、仕事をして、あとはひたすら夫とチャリで、市役所へ行ったり買い出しに行ったり、先斗町で祝杯あげたり、上賀茂神社の手作り市でリース買ったり、「出町ふたば」の豆大福を鴨川でのんびり食べて昼寝したり、絶賛おのぼりデイズ。
家で夕飯食べてから二条城の夜桜観に行くみたいな、暮らしと観光のいいとこ取りをしながら、「京都きたんだねえ」と何度も顔を見合わせチュッチュした。でもなんか、私にはずっと言葉にしがたい感覚があった。
これまで何度も旅してきたけど、「いざ住むぞ」と決めてたどり着く京都は、私が知ってる景色とは全く違っていた。
何を見ても、初日から「身の内」だった。いや、支配的に「私の庭」とか言いたいんじゃなくて、突如として身体の延長線上に京都が広がった感じ。
あ、もう下鴨神社も伏見稲荷も天龍寺も、恵文社も祇園の壹錢洋食も松葉のにしんそばも、鴨川も大文字山もぜーんぶ日常になるんだ。あんなに胸をときめかせた景色が、チャリでいける場所に? TDLマニアがミラコスタに暮らしたらこんな感じ?
って言うか、ある土地が「旅の非日常」から「暮らしの日常」になるのって、こんなに唐突なの。
もう暮らすって決まったときから、こんなに「生活」になるものなの? 夜の川床の明かりを川越しに見るたび、あんなに切なくなったのに?
いや今も十分ロマンチックなんだけど…あのむせ返るような「どこか」への希求が湧いてこない。代わりに浮かぶこの感じはなんていうの? このつかみどころのない温(ぬく)さはなに?
ああもう、今感じるこの差異、東京と京都、非日常と日常の間にあるものを全て記録しておきたい、あと数日で絶対消えちゃう! このゴールデンタイムが消えぬ間に!! そんな焦りに駆られて、いざ日記に書き記そうとすると、もうすっごい眠い。っていうか言葉が浮かばない。頭が回らない。
そんな感じでこの一週間は、大きな環境の変化と季節の節目(引越しデーも春分の日だったし)によって、身体がそれを受け入れるために細胞パンクス起こして、久しぶりに“身体が言葉を生み出すより手前にある状態”ってのをやりました。
もう音しかしないんだよね、脳みそ。ずっとざわざわいってて、小人たちの足音がいっぱいしてるみたいな。
いや一応日記はまとめておととい書いたんだけどね。ミミズがあちこち暴れてるみたいな文字列で、本人でも解読しにくい。やたらでっかい文字で「夜の闇が濃くて想像の余白がある! 脳みそ開く!」とか書いてある。差異、味わってるなあ。
PS…
今日、一仕事終えたあと、散歩がてら下鴨神社のおやすみどころ「さるや」にて。旅できてたころもここが一番好きだった。なんかほんとおのぼりさんな顔。