弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

からだのかみさま

毎日スケッチやクロッキーをするようになったら、

2ヶ月で少しは描きやすくなってきた。

一度書いた小説のあのシーンやあのシーンを絵で描けるように、

もっともっとイメージを形にできるようになりたい。

 

散歩が楽しい。

何を描こうか、眺める世界のなかで、

このところ春が溢れている。

 

 

子どもの頃、夢中で絵を描いていた毎日のときめきが蘇ってくる。

山のなか、画板と画用紙。絵の具やえんぴつはない。

土や草木を擦り付け色をとる。

今思えば父が私に施してくれた教育

(のつもりもなく、それはただ父がしたいことに、

私や妹が付き合ってたようなもの)

の素晴らしさを知る。

絵を描くのをやめたのはいつだったか。

初恋をした小4あたりだった気がする。

 

4歳のころ、「画家になりたい」と言ったら

母に「貧乏になるからやめとけ」とマジレスされて、

ひどく泣いた記憶がある。

あの思い出が気づけばおもしになっていて、

「絵では食えない」とひたすら思い込んできた。

それはいつしか

「やりたいことでは食えない」という呪いにかわった。

 

でも呪い以前に、まあ現実的に、

やりたいこと「ライフワーク」で食うなら、

まずやれることで食う「ライスワーク」の地盤を

しっかり固めておいたほうがいいだろう、

ということを就活前くらいに考えていた記憶がある。

会社員づとめは続かない、

やりたいことしか続かない自分なりの生存戦略だった。

 

あのとき母が私に「絵では食えない」と言ったのも、

当時離婚を考えていた母にとって、

どうやって2人娘を育てるかを考えるだけで必死だった立場を考えれば、

無責任に「いいね」なんて言えない気持ちもわかる。

 

わかるが、私はあのとき毎日母に絵を褒められていたから、

「将来なにになりたい?」と聞いてきた母に

「画家になりたい」と答えることは、

私だけでなく、

母をも喜ばせる言葉になると思っていた。

 

絵を描きたくなったのは、

パリにいったときにゴッホの絵を見たのがきっかけだった。

涙が止まらなかった。

私がやりたいのは文章を書くことだけじゃないのかもしれない。

文章で10年以上食べてきた。

ただ書くだけじゃない。

ライターの仕事は幅が広い。

下調べをして、企画を立て、

取材して起こして執筆して確認して、

ときには写真もとるしラフも書く。

事務作業も多い。一歩間違えると、

どっちがライターで編集者だかわからなくなる。

垣根を間違えないのも、この仕事のきもなのかもしれない。

 

はじめての小説を書き終えて、読み返すと、

勢いで書いた部分は言葉にまとまらずに、

ところどころ走り書きの挿絵をしてあった。

文章だけで伝えるのは難しいな、と実感した。

でも絵なんてもう何年も描いてない。

 

フランス旅から帰って帰省したとき、

うちは父も母も妹も全員熱烈なゴッホファンだったことがわかった。

お土産の絵葉書を母は喜んだ。

ふと、居間から、寝室に飾ってある絵に目が止まった。

4歳の子供が絵の具で描いた山中湖と富士山。

私が描いた絵が、金縁の額に飾られている。

 

ボストンに滞在している間、何度も美術館に通った。

帰り道、ふと夫が私を画材屋へ連れて行ってくれた。

そこで画用紙と鉛筆を買って、翌日はまた美術館へ行った。

アメリカでもフランスでも、

美術館では学生たちが巨匠たちの絵画を模写している。

その列に加わって無心でクロッキーをしていたら、

後ろからのぞきこんできたおじさんに褒められた。

 

4歳の私が飛び上がった。

 

私は、眼の前の、素敵なものの輪郭をなぞるのが好きだ。

それが誰かに伝わると、愛し合えたと思う。

素敵なものに溢れたこの世界を、ともに愛し合えたと思える。

 

できるなら一度描いた物語を、絵で形にしてみたいと思った。

もう食うので精一杯だった20代の自分じゃない。

あのころは「やりたいこと」で食べるなんて考えたこともなかった。

でもなるべく「やりたいこと」に近くて「やれること」を仕事にしたほうが

ライスワークとして手堅いのはわかっていたし

なんなら社会を知るきっぷくらいのつもりでライターになった。

 

10年もすぎると、一応手に職といえるくらいにはなる。

 

母があのとき言い放った「絵では食えない」の言葉に、

私は2つの意味で勝った。

まず私は、絵以外のことで食えるようになった。

食えなくなる不安さえなくなれば、

絵を描くことはどこまでも自由だ。

 

何より、好きなことをして生きるのに

不安がなくなるところまで

連れてきてくれたのは、ライターの仕事だった。

 

2018年に尾原さんの著書

モチベーション革命」(幻冬舎)のライティングをやらせてもらった。

いわゆる働き方改革系の本で、

同年のamazonダウンロードランキングで1位になった。

変化と不安の時代で、いかにやりがいを叶え、AIに負けずに食うか? 

気づけば、私はあの本の模範的な読者になった気がする

(だから文章ってやっぱり、それがインタビューであっても、

書く本人の人生を変えてしまう魔力がある)。

 

 

世の中の変化と不安はとまらない。

でも、いまのところ特に不安はない。

どんな時代がきても、夫と協力しあっていかようにも食っていくだろう。

これまで、私も夫もたびたび働き方を変えてきた。

住処も暮らしも付き合いも、必要を感じたら潔く変えてきた。

だって、いまは甘い夢から覚める時代だから。

自分たちらしく生きるために、捨てたものの多さは計り知れない。

なにが自分たちらしくといったら、

“自然の摂理にならうこと”かもしれない。

 

オリンピックが開催されないかもしれない。

でも“おもてなし”で世間が沸き立つあのころ、

私と夫は「じゃあ2020年までには東京を出るしかないなあ」と話し合ってた。

身の回りで、オリンピック開催を喜んでたのは代理店の友達くらい。

「東北の復興だってこれからなのになにいってんだろね。

まるで延命のための注射みたい」って感じで萎えてた。

だから正直、私はテレビでオリンピック関連のことやってるたびに

「今の東京でオリンピックなんて不自然だよ。

どうせなくなるよ」なんて言ってた。

だからなんにも驚かない。

ああ自然の摂理だよね。

 

冬の次に、夏はこないし。

雪解けの下から生えるのは、

バラじゃなくてふきのとう。

 

私が絵を描くことに火がつくころ、

夫は人形劇に目覚めた。

私も夫も、子どものころにときめいた光に再び触れた。

そこまでにかかった時間は、まず食うための時間。

生きるための時間。手段を整える時間。

これからは、

やりたいこととやるべきことを融合していく時間。

 

確固たる生き方が整うと、なんの不安もない。

日々は相変わらず愛おしい。

自然の摂理は身体のなかにある。

身体のなかから生まれる音を聴きながら生きていると、

やがて身体の外に広がり、外の世界が共鳴し始める。

これが逆だとしんどい。

外の世界に自分が共鳴していくと、

不安が逆流入してくる。

 

 

いつだって世界はからだの内側から。

 

からだのなかには、だからかみさまがいる。

 

 

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京都どこもすいてるので、ここぞとばかりに寺巡りしてる🐰