弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

2018年のレクイエムを聴きながら

紅白の米津玄師見てたら、ちょうどあのキャンドルの光みたいなものが、胸の真ん中に灯った。温かで確かなもの。暗闇の中にあって、輝くもの。思えば、2018年最も多くの人が聴いたであろう曲はレクイエムだったんだ。個人の奥深くから湧き上がった歌が、個人の奥深くに灯る。それが、活力に満ちた応援ソングではなくて、闇の中で輝くレクイエムだった。それでふと考えたことがあった。

 

秋に2回ほど出雲に行った。年に一度、日本中の神々が集まり「会議」する神在祭でもあった。この機会にと思って、宿にあった神話にまつわる本をいくつか読んでいた。その中に、学者の記事で「古事記はノスタルジーだ」と書いてあった。日本書紀がシンプルな歴史書であるのに対し、古事記は敗者の描写が細かい。倒された神々(部族)がどう息絶えたかまで、鮮明に描かれている章もある。つまり、書き手による敗者への想いがある。だから、「古事記は、日本人のノスタルジー好きの原点なのだ」と、記事では結ばれていた。

 

何か違和感がある。私は、天照に国譲りを迫られた大国主が、息子である事代主に相談を持ちかけたと伝わる「美保岬」のとある宿で、ふと黒い海を見ながら想像した。私が古事記の書き手だったらと、しばらく考えてすぐにピンときた。ああ、あれは単に、敗者へ想いを馳せるノスタルジーなのではない、敗者への畏敬の念、つまりレクイエムなのだ。

 

出雲は不思議なところだ。ふとした田畑や分厚い雲に覆われた空、そこから光の梯子がさす風景など見ていると、すぐにトリップしてしまう。何か、今も別の次元にある空。どうにも恐れ多い場所。ここの大きな神は、かつて国を譲った。自分が巨大な国を作り上げた土地を、一切合切譲るのはどんな気持ちか。かつて土地にいたものたちが、後からきた者たちに土地を奪われるのはどんな心地か。

 

私が書き手なら、その歴史を(政治的にあらゆる配慮をしなければならない一大事業を)記すとき、敗者に対して、弔う心でそれを記すと思う。彼らを慰め、癒し、奉る気持ちで筆をとる。それは単なる郷愁ではない。口伝そのものが、書くことそのものが、祈りなのではないか。稗田阿礼が、太安万侶が、果たしてそう考えたかは知る由も無いけれど。

 

古事記は、後世の日本人の心にあらゆる染みをつけた書物だと思う。良くも悪くも。あれは、本来読み手をものすごく試す書物なのではないかと思う。私たちの心には、この世を退いた者を祈る、レクイエムが深く染み付いている。いわばそれは、より心の深部にアクセスするキーのようなもの。つまり私たちには、レクイエムの音や声や身体性によって、深く掘り下げ開かれる、心の扉がある。その、深く掘り下げられた先に、キャンドルのような灯りが灯った。2018年の最後の夜に。

 

個人の奥深くから湧き上がった歌が、個人の奥深くに灯る。きっとこれまでの時代では、光は人の外側にある。とされていた。それも古事記による一つの染みかもしれない。

 

だけどこれからは、光は胸の内側の奥深くにあることを、思い出していくときなのではないか。そのためには、まず自分が、内側にあるそれを、深くダイブして探していく必要があるのではないか。それを、表現したとき初めて、他者の奥深くにアクセスするのではないか。「今でもあなたは私の光」と、文字で見れば光が外側にあるような気がするのに、今夜は、あくまでそれが「私の(内側に灯る)光」、つまりすでに私のものである光、と聴こえた不思議。紅白を見ながら、そんなことを考えた。

 

古い神話によって染み付いたものが、新しくなっていく予感がした。

 

そんなこんなで、わたしゃ夫とぽこと年越しそばを食べつつ、2018年のテーマだった「創作と身体性」を、2019年は「胸の真ん中で伝える」にアップデートしよう、と思いました。(抱負)

 

きっとそこには、大事なものがある。

 

いいもん見た。ありがとう。

 

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美保岬の宿街にて。夫は出雲がとても心地よいらしい