弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

怒りの前のさみしさに

f:id:yaeyaeyae88:20190727154855j:plain

フランス・オーベルジュの、ゴッホのお墓近く。

このところ、移動が多い。1ヶ月のフランス滞在から帰ってすぐ、京都の自宅から友人らを訪ねに伊勢へ、さらに最近仲良くなった整体師の男の子を連れて天川の例大祭で能を観て、「さて、新潟の実家へ行こう」と走らせた車は、わたしの気まぐれ風に煽られ神戸の六甲山へたどり着いていた。

 

その後、北陸周りで新潟に到着して、翌日には鈴木家の誕生会で東京へ。絶賛フジロックで賑わう新潟へ戻り、原稿やら打ち合わせをこなして、明日はまた東京へ行く。我ながら今年の移動っぷりは凄まじい。

 

そして気づいた。あまりにも移動が多いと、どうも腰を落ち着けて私的な文章を書けない。この間、流した涙も喉をついて出た怒声も、息が吸えなくなるほど笑ったことも、その感触だけ体中に残ったまま、はてそれらがいつの出来事かも思い出せない。

 

今日打ち合わせをしていて、ふと、「怒りの前にはさみしさがある」という話になった。そもそもさみしさは怒りに転化しやすい。さみしさを表現できたら、そして受け取ってもらえたら、怒りは湧いてこないはずだと。毎日、どんどんすぎていく景色の中で、この手のさみしさが溜まっていく感じがある。話すほどのことでもないのに、誰かに話したいくらいの。

 

山の向こうの湿度を含んだ風が、窓からせり上がってくる。新潟は涼しい。ひんやりした畳の上で小学生みたいに手足を投げ出して、ひぐらしとキリギリスの鳴き声が肌の隙間に入ってくるのをじっと感じる。すると不意に胸が詰まって、綺麗に畳まれた母の敷布団に顔を埋め、声もなく吐き出す。日に焼けた肌が母の匂いに油断している。

 

怒りに変換可能なさみしさには、特有の甘やかさがある。胸のうちにたゆたうソレを、思春期の頃も、よく味わっていた。だからよく知っているのだ。この手の甘やかさは癖になる。なぜなら、一種の麻薬みたいなものだからだ。胸の痛みを麻痺させるためにブワッと溢れ出てくる麻薬。気がつくと、これ自体が癖になる。一度ハマってしまうと、今度は人生ごと、さみしさを味わうように舵を切ってしまう。

 

どういうわけか私は、あの頃すでに「これは本質的なさみしさではない」とどこかで思っていた。押入れの暗いところから「こっちにおいで」と手を伸ばす黒い生き物に、「もうきたのか。じゃあもう返すよ。これは飽きた」と足で突っ返すことができた。わたしはいまでも、この境を超えたことがない。なんというか、甘やかさのあるさみしさなど、孤独ではないよなあ、と仙人めいた自分が言うのだ。孤独は、輝く宝物だからと。

 

でもこの甘やかさは時々、文章を書くエンジンにもなる。飲まれるのではなく、呑み下して、あとは吐き出せばいいのだ。と仙人はいう。ひぐらしの数が増えて、耳にこもる。母の顔が浮かぶ。食事の支度をしなくてはいけない。立ち上がるとめまいがした。冷蔵庫からキャベツと鶏肉、玉ねぎを出して刻みながら、はてこれを何に仕上げようと考える。包丁を持つ手から、先ほどまでの一切の感情が滑り落ちていく。母の顔が浮かぶ。仕事から帰った母がドアを開ける音を自然と待ち構えていることに気づく。一切のさみしさも、隙間風も、全部吹き飛ばしてしまう母の、あのわけのわからない明るさに、包丁一つでわたしは近づいていける。

 

最近知った。人間の明るさは、迷いのない生活リズムが生み出している。