弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

「うちの子なんて」が産む「私なんて」とかいう文化

ちょっと前、親友と電話していた時のことだった。彼女はふっと思い出したように、小学生の頃のことを話しだした。絵画コンクールで賞をとって、作品が廊下に貼り出された。彼女はそれが誇らしく、授業参観の日、胸を張って母に見せた。その時、同級生のお母さんが通りかかって、彼女の絵をひとしきり褒めた。「すごいわねえ」。すると彼女の母親は、

 

「いや、うちの子なんて、全然たいしたことないんですよ」

 

と笑った。今思えば謙遜のつもりだったとわかる。でも当時は、「あれ、私、大したことないんだ」と思ったそうな。

 

彼女がどうしてそんなことを不意に思い出したのか、私は聞かなかった。彼女はさっぱりした性格で、過去の傷をいじるタイプではなかったし、その恨みを今更親にあてがうような感じでもない。おそらく彼女自身が自分と向き合った時、心の奥に置き去りになっている「しこり」のようなものを紐解いていったら、糸の先端にその言葉がぶら下がってたんだろう。

 

私は彼女のお母さんのこともよく知っているので、その明るい笑顔を浮かべながら、本人に何ら悪気がなかったのも良くわかった。そしてそれは、時代とか土地柄とか、なにがしかの空気によって生み出されるものなんだ、ということも。

 

だから彼女は、何を恨むでもなく、ただ何となく、自分に自信が持てないでいる「私なんて」という発想には、そういう構造が隠されていた、と気づいたそうな。

 

「ねえ弥恵は絵描くの好きだったよね。お母さんて、そういう時どうだった」

 

母の笑顔が真っ先に浮かんだ。自分でも自信があるとき、母は絶賛してくれたし、自分でもイマイチかな、と思うときは母のリアクションもイマイチだった。謙遜はどうだろう? 女手一つで働いて忙しかったせいか、そもそも母がご近所さんや同級生のお母さんらと会話をしている光景を見たことがなかった。

 

いまだに4歳の頃描いた富士山の絵が、金色の額縁に納まったまま、実家に飾られてる。別になんの賞をとった絵でもないが、大人になってみると我ながらいい絵だなと思う。

 

そして私も今だに、たまに描いた絵を写メで撮って母に送りつけてる。送るからにはいい絵だなーと自分でも思ってるし、母の反応もすこぶるいい。このブログもそうなんだが、母は誇らしげにFacebookで友人らにシェアしている。娘が書いた文章です。面白いです。みたいな。どうやら謙遜とは無縁の人らしい。気のいい友人に恵まれているのか、ありがたいコメントまで残してくださっている。なんだか会ったことのない叔父叔母がいっぱいいるような気分。

 

ひとしきり思い出すまま話すと、電話の向こうで、

「だよね、だろうなあ」

彼女はしみじみそう言うのだった。

 

大人がする謙遜なんて、ちょっとした防御に過ぎない。

 

でもその「ちょっとした防御」のために、幼なかった彼女に「たいしたことがない」なんて呪いが降りかかって、30を過ぎてそれをやっと紐解けた、その道のりを思うとなんだか悔しくなってくる。そしてたくさんの女友達の顔が浮かぶ。元気を無くして電話をくれた友達。私はただ、「あなたにはこんなに素晴らしいところがあるじゃん」と言っただけ、褒めたつもりなんてない。だけどみんな「褒めてくれてありがとう」と言ってくる。「そんな褒めてくれるの弥恵だけ」。

こっちは「褒める」というほど、意図的にやってることじゃないのに、当たり前のことなのに。そこまで縛られててもいけないんじゃないか。それでまた「私なんて」が産む「うちの子なんて」とかいう悪循環を繰り返すのか?

 

京都に引っ越してからも、なんやかんや月一でお邪魔している鈴木家での食事会。そこのちびくんは小学生になった。彼はよく絵を描き、歌い、踊る。食事をしていると、お母さんとかおばあちゃんが「あれ、弥恵ちゃんたちに見せてあげたら」と言って、ちょっとした発表会になる。彼の描く絵はちょっとすごい。色使いがユニークで、見ていると解放的な気持ちになる。そんな彼を取り囲む家族には、誇りがある。何より彼は、その誇りを、小さな胸にちゃんと抱いている。私はなんとしてもそれを守りたい気持ちになる。その姿を見ていると、なぜだか自分が誇らしくなるから。

 

かたや街中を歩いていると、そこの交差点でも、カフェでも、「うちの子なんて」みたいな会話をいくらでも聞く。もう挨拶みたいになってる言葉。残念ながら、この文化は東西南北どこにでもあるらしい。大人は、その裏にある社交辞令をちゃんとわかってる。だから余計にたちが悪い。社交辞令だからと、言葉がもつ力を考えることをやめてしまう。それは怠惰だ。どんなに儀礼化したとしても、言葉には力があるというのに。

 

その力が、祈りにも、呪いにもなることを、忘れてしまっているんじゃないか。実はそこでかけた呪いは、子供に降りかかるだけでなく、自分をも固定化していく、そういう恐ろしさがあることを。

 

 

 

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よくないぜ(二見の水族館にいるやつ)