弥恵の「からだのかみさま」

東京→京都に移住したライター・弥恵(やえ)の日記です

鈴木敏夫と熱風と、米津玄師

 

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スタジオジブリの出版部にて、「熱風」制作の編集兼ライターとして参加させてもらうことになったのは2014年の春だった。かなり後になって、鈴木さんが推してくださったのを人づてに知った。その頃には、鈴木さんのご家族と同じマンションに夫の譲とともに住んでいて(隣の部屋には鈴木さんのお母さんが住んでいた)、すでに鈴木さんは親戚みたいな家族みたいな距離にいて、会えば憎まれ口を叩くのが愛情表現なのか照れ隠しなのかとにかくそんな感じだったから、改まることがすっかり照れ臭くなってしまっていた。いまだに、素直にお礼を言うことができないままでいる。

 

「熱風」はジブリが発行しているフリー雑誌で、テーマは「スタジオジブリの好奇心」。月に1度の編集会議で、いくつかの企画を持ち込んで発表し、採用された企画を元に、編集員が寄稿を依頼したり取材したりして作っていく。会議の前日は眠れなくて、もともとジブリにいた譲に企画の相談をしたり、意見をきいたりしながらまとめ、当日は緊張して喋りすぎるくらい喋って、自分でも何を言ってるのかわからない時がよくあった。編集員の皆さんが、「うんうん」と先を促し、拾ってくれるのにどれほど救われたことか。スタジオを出る頃にはいつも、ガス欠みたいな感じだった。入り口にぬぼーっと立っているでっかいトトロが、はじめは「これはドキュメンタリーとかで見るやつ!うおおお」って思ってたのが、だんだんと、なんだか恐ろしい門番みたいに見えてくるのだった。

 

会議の席に鈴木さんはいないのだけど、企画の決定をしているのは鈴木さんだった。これがぜんっぜん通らない。今度こそは。あ、まただめだ。次こそ! あ、やっぱダメなの。しびれを切らして、鈴木さんに直接「なんでダメなんですか」と聞いたこともあった。鈴木さんのお母さん(おばあちゃん)がまだ生きていた頃、日曜日に譲と私と敏夫さん、おばあちゃんの四人でお寺や神社へお散歩に行くんだけど、一度夫がいないことがあって、あれは武蔵小山商店街の喫茶店だったか、どうしたら企画が通るのかを聞いたことがある。すると鈴木さんは紙ナプキンを取り出して、さささっといくつか企画を書いた。どれも今の鈴木さんが興味を持っていること。くそ、どれも面白そう。そしてちょっと落ち込んだ。私は何に興味があるんだっけ。

 

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同席してた姪っ子が退屈しないよう、鈴木さんが描いてくれたトトロとまっくろくろすけ

 

煮え切らない顔でいると、鈴木さんは「よし歩こう」と立ちあがった。私はおばあちゃんの車椅子を引きながら、雪駄を鳴らしてさかさか歩く鈴木さんの背中を追って、商店街に出た。すると演歌とか歌謡曲のCDなんかが売ってある店の前で、立ち止まった。そして「このお店でなんか気づくことはあるか」と振り向いた。よくみると、カセットテープが販売されている。…このご時世に? 首を傾げていると、「そういうところから企画を考えるんだよ」とニヤリと笑った。身体を使って考えろ、と言われた気分だった。私は、鈴木さんのメガネをかけて、その雪駄を履きたい、と真っ先に思った。

 

初めて企画が通ったのは、4年後のことだった。2017年年末、私が出した最後の企画だった。やっと、ちょっとは追いつけたような気がして、もう超湧いた。速攻で譲に電話して「ついに敏夫さんをやっつけた!(?)」とガッツポーズ。しかし残念ながら、その企画は取材相手とのスケジュールがあわずに頓挫してしまった。ショックだった。その時点で、熱風の企画会議に参加できるのは、最後だったから。数ヶ月後には東京を離れ、京都に移住することになっていたからだ。

 

最後に参加したのは4月号、制作は1月ごろに始まった。内容は宮崎駿監督の最新作「毛虫のボロ」特集。「熱風」では、ジブリの最新作や美術館での展示などがあると、著名人や識者へ観てもらい、感想をインタビューしたり寄稿したりしてもらって、掲載する。出版部の皆さんには「今後、関西で取材があればお手伝いさせてください」と挨拶するつもりでいたものの、実質、東京ではこれが最後の仕事になるなあ、としみじみ、スタジオへ出向いた。1月末のこと。「ボロ」の試写を見て、開始30秒くらいにはもうボロボロ泣いていた。

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冒頭、夜の世界から目覚めたボロは、四角いゼリーのような朝の光が空から落ちてくるのを不思議に思い、ボロギクを上へ上へと登っていく。朝日が顔を出した途端、オレンジジュースのような光の洪水がボロを通り抜けていく。頰まで鳥肌が立った。知ってる。光は見える。あれ、なんでこれ、私、知ってるんだろう。26歳のとき、屋久島の山にこもっていた3日目の朝、森で見たんだ。食料も水も随分減って、軽くなったザックを背負って山を降りようとした。シャクナゲの青いトンネルを抜けて、巨木が立ち並ぶ森の隙間に立った瞬間、朝の光が、つぶつぶして見えた。それは確かに形をもって、空気中でぶよぶよしてた。そうだ、あのとき、私は東京を出ようと思った。土があるところで暮らしたい。こういう、光の粒がちゃんと生きている世界で。

 

するとカメラが俯瞰して、驚愕した。ボロが住んでいるのは、多摩、東京だったからだ。私は、ここから出ようとするばかりで、足元にあるものを見ようとしなかったころの自分を思い出した。あと残り数カ月で、これほど繊細な目を持って、もう一度東京を見ることができるのか? もうショックやら衝撃やらで頭がパンパンで、たまたま同じ時間の会で、試写室でご一緒していた養老孟司先生(会釈しかしてないけどもう触れたら柔らかそうな素敵ダンディだった。。。><)に「うわー!!」と振り返って肩をガッシー掴んでオラーと揺さぶって、思いの丈を吐き出したいような衝動にかられた。なんてったって京都移住の決定打は養老さんの著書「京都の壁」だったから。懐借りたくなる衝動って本当に一方的で危ないや。ドキドキしながら、先生の背中を見送ったのでした。

 

さて「ボロ」を誰に観てもらうか。切ないような、嬉しいような、胸が開きすぎてかえって痛いのを抑えながら、真っ先に浮かんだのが米津玄師だった。彼の顔が電球みたいにチカチカ点灯した。どうしてあの時米津くんが浮かんだのか。ちょうど1月に、夫に頼んで、彼の武道館ライブに連れて行ってもらった。そのどれのシーンとかどの曲とかじゃなくて、なんていうのか、身体で聞くほど彼の曲は、野生だと思った。その感覚が、ボロを観た時の感覚にすごく似ていた。だから、宮崎監督の「ボロ」から受け取った熱量みたいなものが自分の体に入ってきて、その熱をポーンと放出したらそれが「よねづけんし」って喋った、みたいな感じ。

 

「繋がったんです!もう彼しかいない!ダンッ」って候補者提案の企画書にそのまま書いたらあぶねえ奴なので、もちろんそこは通すための企画書を書いたわけです。GOをもらって、すぐに譲に繋いでもらった。ご本人にジブリにきていただき、試写を観てもらい、あのなっがい前髪で反応が見えねえ。。。笑っちまうぜ輪廻!と思いきやもうお顔がほっかほかじゃないですか。前髪で隠れてないじゃないですか感動が。ってことで小さくガッツポーズし、お話を伺ったのでした。言葉を大事に選んで、ゆっくり話すリズムと、言葉につかえるたび、ひらひら舞う大きな手が印象的だった。嘘やてらいで言葉の温度を変えたりしない、なんて話しやすい人だろうと思った。そんな感じで、少ない時間、しかも視聴直後にも関わらず、ありとあらゆる方向から主観も客観も交えて語っていただき、とても充実した原稿にたどり着くことができたのでした。感・無・量。

 

少し話が戻るけど、最後に通ったが実現しなかった私の企画は「身体の感覚」というタイトルで、”創作における身体性”がテーマだった。当時、私は、一つの願いを込めた詩を書いていて、あるとき、その詩に書いたことがそのまま起きるという、不思議な体験をした。これは何?と思っていたころ、たまたま立ち寄った立教大学の一般聴講、シャーマニズムについてのシンポジウムに参加した。そこで「沖縄の巫女であるノロの中には、島の痛みを自分の体の痛みで捉え、例えばそれが腰なら〇〇市が苦しんでいる、とし、現地に赴き祈りを捧げる人がいる」というのを聞いて、自分が詩を書いたときに感じた身体の感覚と、その話が結びつく感じがあった。

 

身体と祈り。そのことをもっと深めたくて、年末に出した最後の企画で、出産後に作品が劇的に変化した、ある女性クリエイターに取材依頼をしたのだった。創作をする人は、その身体性の変化によって、どう作品に影響が出てくるのか? そういう興味があった。今思えば、4年間、月一で企画を捻出する作業を続けていくことによって、私は自分が追いかけたいテーマを、言葉にする力を鍛えていたのかもしれない。このブログのタイトル「からだのかみさま」には、そんな思いを込めた。

 

同じ興味を、米津くんに思う。あのときライブで感じた歌の野生は、そのまま、彼の豊かな身体性によるものだったのだと思う。

昔、台所で人参の皮をむいている時、「海と山椒魚」を何気なく聴いていたときだった。

 

真昼の海に浮かんだ 漁火と似た炎に 安らかであれやと 祈りを送りながら

 

突然ざあっと潮風が吹いた。見知らぬ海が広がって、途端に胸が痛くなった。あれはなんだったのか。身体の感覚は言葉や音や光を通して、その人の体の感覚を、他者へと伝える。ある種の人は、瞼に焼き付いて離れない原風景を追って、原始的な伝達方法でもって、多くを表現する。そういうアーティストなんだなあ、と密かに思ってる。だって彼の音楽から溢れ出る原風景に、妙に恋しさを感じるのは、私だけではないはずだから。

 

東京にいた13年間は、自分がダイブしていく川を探すような日々だった。その中で、やっと、身を投じる場所を見つけた、と思った。その川では、身体で作る人たち、伝えていく人たちが元気に泳いでいて、より澄んだ上流を目指してる。

 

そんないくつかの尾ひれを追って、私もそこに飛び込んだ。源流にいる原風景であり、自分であるもの、に出会うために。いまは京都で、ある物語を書いている。鴨川のそばで、溺れないように。…って、これを書いている今日(7月6日 ※更新は9日)、大雨の影響で鴨川はシャレにならない濁流です。

 

 

そんなわけで、鈴木敏夫ジブリ汗まみれにて、米津玄師くんと鈴木敏夫さんとの対談にて、佐藤譲と弥恵がパイプ役で喋っております。鈴木さんの声ってお日様みたいに明るくて、犬なら喜んで腹を見せてしまうような、ナチュラルにマウントを捧げたくなる不思議な力があるんだけど、一方米津くんの声はお月様みたいに澄んでいて、聴いてると月の影のあたりに吸い込まれて別次元にいっちゃいそうなトリップ感がある。そのコントラストを聴いているだけでも、いい声の共演やな〜と思いました。私はほんのちょっとしか喋ってないけど、大事なことは言ったと思うのです、たぶん。

 

◾️ラジオ音源は、こちらからポッドキャストで聴けます。3回分あるので探してみてくだされ

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鈴木敏夫のジブリ汗まみれ - TOKYO FM 80.0 - 鈴木敏夫

 

TOKYO FM系「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」

23:00~23:30

・7月15日(日)

・7月22日(日)

・8月5日(日)

※ラジオアプリ「radiko」のタイムフリーから、

放送後1週間後くらいまでなら聴けるみたいです。

 

詳細↓

https://natalie.mu/music/news/290309

 

鈴木敏夫ジブリ汗まみれ 公式サイト

www.tfm.co.jp

 

 

ちなみに朝のつぶを見つけた、屋久島の朝の森はこんな感じでした

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